秋山錠剤物語第一章 市郎、上京まで

第一章 市郎、上京までSTORY

大正14年に創設
大正14年に創設

「秋山研究所」—— 墨でくっきりとそう書かれた看板が一人の青年の手で東京の一角の或る二階家にかかげられた。1925年(大正14年)の10月11日。場所は東京府荏原郡平塚村大字戸越字田向(現在の品川区戸越1丁目9番地)の商店街。
道ゆく人もその真新しい看板に目をとめた。その家は決して立派な建物ではなかった。ごくふつうの二階家で、派手な飾りもない、商店のように豊富に品物が並べられているわけでもない。それは、小さな工場だった。間口は約二間半(約4.5m)、奥行は六間(約10.8m)。土間をつぶして、そこに機械がいくつか置いてある。隅の方には、薬研の姿も見える。働いているのは青年とその妻の二人きり。
——この小さな工場こそ、秋山錠剤株式会社の始まりの工場であり、「秋山研究所」の看板を入口にかかげた青年が、創立者の秋山市郎(当時32歳)であった。

大正14年といえば、死者9万余を出した関東大震災の二年後、東京がようやく復興のきざしを見せ始めた頃である。普通選挙法が施行され多くの日本人が選挙権を持つようになったのもこの年。また7月には、東京・愛宕山の東京放送局(JOAK)が、わが国で初めてのラジオ放送を開始、その秋の早慶野球戦の実況放送を多くの人々が楽しんだ。あるいは、バスガールが登場したり、朝日新聞の連載マンガ“正ちゃん”が人気を集めたり、一時は壊滅的な打撃を受けた東京も、また活気を取戻しつつあった頃である。

「秋山研究所」は、そんな時代の明るい雰囲気の中で薬(錠剤)の製造工場として出発した。製薬会社からの委託で、薬の原料を、錠剤に加工するのが主な仕事である。工場は二階家の一階部分。だが、一人の青年が作った工場は、出発当初は、まだ工場と呼ぶにはあまりに小さかった。土間をつぶしてそこを作業場に変えただけの簡単なもので、設備は米国アーサー・コルトン社製の単式錠剤機1台、1馬力のモーター1台、小型乾燥機1台、それに古い薬研と乳鉢、篩等であった。
従業員もいなくて仕事をするのは秋山市郎とその妻ケイの二人きり。だが、この小さな「工場」には活気がみなぎっていた。そして32歳で独立、自分の工場を持った秋山市郎は将来への希望に燃えていた。

市郎の生い立ち

秋山市郎は1893年(明治26年)福島県平町字紺屋五十八番地に秋山義徳・ヒサの長男として生まれた。ちょうど日清戦争の前年である。秋山家は、代々、磐城国・平城主安藤家の藩士で、市郎の祖父、秋山善治は、幕末の名老中安藤対馬守信正の家臣だった。(安藤信正は、井伊大老が桜田門外の変で刺殺されたあと老中に抜擢され、開国派と攘夷派の対立が激しかった当時の政局を収拾にあたった人。しかし1862年、いわゆる坂下門外の変で攘夷派に襲撃を受け失脚した。)

明治維新後、祖父・秋山善治は、いち早く刀もマゲも捨て、事業家に転身。いまでいう「不動産業」を手始めに穀類の販売などを始めた。“武家商法"で、没落していく武士が多かった中で、善治は着実に事業を拡大。秋山市郎が生まれた明治26年ごろには、福島県平町字紺屋の一等地に店をかまえ、手広く、米・砂糖・渋・油・民製タバコなどを扱っていた。秋山善治はまた創意工夫に富んだ人で、自宅から2キロ近く離れた清水(武者落)から自宅の庭まで、自分で考案した竹の管(筧)をつないで“上水道"を作ったりもした。(この竹製の上水道は、平町の水道の始まり、といわれている)「私(市郎)が子供の頃、秋山家は大変栄えていました。いまでも憶えているのですが、五月の節句の時には、大きな武者絵の幟が家のまわりに三十本以上もたてられ、それが風にゆれて大変きれいでした。近在からそれを見にくる人がたくさんおりました」「また三月のひな祭りの時には、八畳の部屋いっぱいにひな人形が飾られ、いちばん上の人形は鴨居にとどくほどでした。背の小さな私はそれを見上げて感歎したのをおぼえています」(市郎・談)

つらい少年時代

だが、その秋山家も、市郎の父・義徳(栄治郎)が家業を引き継いでから、坂をころがるように没落していった。 父・義徳は、五男の末っ子で祖父に甘やかされて育ったためか、金銭に無頓着で世間知らずの所があった。頼まれると断れず何人もの保証人になり、他人の借金を返すことが十数回もあった。また、明治23年の第一回帝国議会のための選挙の時には、当時、自由民権運動の闘士としてこの地方で有名だった白井遠平の選挙運動を支援、いまでいう“スポンサー"として白井のためにばく大な金を使った。白井はそのおかげで第一回衆議院議員に選出されたが、秋山家の方は、度重なる出費でその財の大半を失っていた。
市郎が小学校を出る頃には、祖父も亡くなり、秋山家はすでに昔日の勢いはなかった。市郎の苦難に満ちた少年時代が始まる。父・義徳は祖父・善治から譲り受けた店も手離し、その後、魚問屋をしたりかまぼこ製造をしたりしたが、祖父と違い経営の才がなかったようでどれも長くは続かなかった。場所も転々とし、平町から12キロも山に入った箕輪村中根の中根鉱泉で鉱泉旅館を経営したこともあったが近くの好間炭鉱の発展につれ鉱泉が出なくなりこれも失敗してしまった。その後2キロほど平寄りの北好間でも鉱泉旅館を経営したがこれも長く続かなかった。

当時秋山家には長男・市郎を筆頭に10人もの子供があったので生活は苦しかった。市郎は小学校(福島県立平尋常高等小学校)は卒業したものの、中学校(福島県立磐城中学校、現在の県立磐城高等学校)に入ってからは家業の手伝いをしなければならず、ついに2年の時に学校をやめざるをえなかった。この頃、秋山家は北好間で天然水の販売をしていたが、市郎はその手助けをしたり、前出の白井遠平が経営する好間炭鉱で測量助手として働いたりした。しかし、家業は好転せず、貧乏なうえ子沢山の秋山家のやりくりは大変苦しかった。そうした中で母親・ヒサは末っ子・朝子を出産したあとの産後の肥立ちが悪く41歳の若さで死んでしまう。明治44年、市郎18歳の時である。