秋山錠剤物語 第三章 独立、「秋山研究所」を創立

結婚

そうしたつらい毎日を送りながらも市郎は紀尾井町にあった明治薬学専門学校(現在の明治薬科大学の前身)に通い、薬剤師の勉強をした。会社では錠剤製造技術を習得していった。星製薬での仕事も安定し、東京の生活にも慣れた1922年(大正11年)、市郎は叔父の紹介で、師田末吉氏の長女ケイと結婚した。
市郎29歳の時である。

師田末吉氏は東京・立川の出身、警視庁に20年勤続したあと、東洋製菓の工場長をしていた。剣道の師範でもあり、真影流の達人(十八代真影流創家)であった。長女ケイはこの時22歳であった。身内だけのささやかな結婚式を終えた二人は、東京・戸越(東京府荏原郡平塚村大字戸越字田向)に借家ながら新居を持った。

「家は、今の戸越銀座駅付近。当時はまだ原っぱで、牛車で百姓がくみとりにくるような田舎でした。六畳と三畳二間の借家で、たしか家賃は10円でした。 星の工場のすぐ近くだったので昼休みには食事に帰ったりもしました」(市郎・談)結婚で生活も落着いてきた市郎の次の目標は「独立」だった。なんとかして秋山家を再興したいと考えていた市郎にとっては、自分で会社を興すことが夢だった。だがほとんど裸一貫で上京してきた市郎には独立はまだ夢物語でしかなかった。それに父の死(大正11年8月)、長男・義郎の誕生(大正12年1月)が相次ぎ、市郎の身辺はまだ独立の余裕はなかった。

吉田浩一氏との出会い

そんな時である。偶然のめぐりあわせで、市郎は、当時「三鱗製薬」という会社を経営していた吉田浩一氏と出会った。この出会いが市郎の独立のきっかけ、ひいては「秋山錠剤」誕生のきっかけとなるのである。 当時、市郎は星製薬の錠剤部のベテラン工員だった。たまたま、星製薬を見学に来た吉田浩一氏は市郎の技術の優秀さを見込み、自分の工場に技術指導にきてくれるように頼んだ。三鱗製薬では「チクノール」という蓄膿の薬(錠剤) を作っていたが、錠剤成型がうまくいかず、優秀な錠剤技師を求めていたのである。
市郎ははじめは吉田氏の申出を断った。
「私は星製薬の社員であり、そこで学んだ技術を他社に教えることはできない」とかたくなに辞退した。吉田氏は再三、市郎に技術指導を頼んだがそのたびに市郎は「自分は星製薬の人間だから」と固辞した。しかし吉田氏は市郎の人柄に魅かれついに自宅にまで訪ね、市郎を説得した。妻ケイはその日のことを次のように語っている。

「ある日、吉田さんはその頃生まれたばかりの長男・義郎(二代目社長)に珍しいおもちゃを持って来たんです。私は子供にこんなにまでしてくれる吉田さんの依頼を断るのが悪くなりまして『あんなにおっしゃるんだから一度工場をお訪ねしたら』とすすめたんです」
妻からもそういわれて市郎はようやく重い腰をあげ、ある日曜日、東京・高樹町にあった三鱗製薬の工場を訪ね、工程を改良し、立派な製品を作りあげた。
吉田氏が喜んだのはいうまでもない。一夕、市郎は吉田氏に招待され、その席で「独立しないか。君が錠剤を作ってくれるなら、私の会社も助かる。資金の援助は出来るかぎりしよう」と熱心にすすめられた。

「突然のうれしい話にびっくりしました。ただ、始めはずい分迷った。独立して自分ひとりで果してやっていけるかどうか。毎日、悩みましたが、このまま星製薬にいても中学校も満足に出ていない私が偉くなれる筈もない。『いい機会だから、母さんひとつやってみようか』と妻にも相談し賛成を得たので、吉田さんを頼って、勇を鼓して独立を決意しました。独立にあたっては私は、工場の上司にも義父にも相談しなかった。自分のことは自分で決めるほかないというのが私の信念でしたから。ガンコといえばずいぶんガンコな青年でした」(市郎・談)

妻と二人だけのスタート

独立の資金は、星製薬からの退職金550円と、吉田浩一氏から借受けた1200円(これは独立後、約10ヶ月で返済)をあわせて計1750円であった(当時は千円で相当な家を土地付きで買うことが出来た)。
こうして、約10年つとめた星製薬をやめた市郎は、大正14年(1925年)10月、独立して「秋山研究所」を、東京・戸越に創設したのである。
しかし、会社を作ったといってもそれはまだ名ばかりであった。土間を改良して作ったコンクリートの作業場には米アーサー・コルトン社製の単式の錠剤機が一台あったが、社員もいなく、市郎と妻のケイの二人がなにからなにまでしなくてはならなかった。

米アーサー・コルトン社製の単式の錠剤機は、現在でも大切に保管してある

吉田浩一氏のバックアップがあったので仕事は忙しすぎるくらいにあった。「チクノール」の錠剤加工が主だった。朝、三鱗製薬から原料を受取り、それを一日で加工し、明朝には妻ケイが製品を届けるというフル回転の日が何日も続いた。おかげで星製薬時代には65円位だった月収が、独立後は2、3百円にもなり、わずかながらに貯蓄もできるようになった。当時の受注金額は、一万錠作って2円だったから、二人だけで実に月に100万錠以上作っていたことになる。しかも、単式打錠機を使ってだから、その労力たるや大変なものだった。

妻のケイは当時の苦労を次のように語っている。

「あの頃は寝ている時以外はほとんど仕事をしていました。まだ赤ん坊だった長男の義郎の相手をすることもできず、タンスにひもで結びつけたり背負ったりしながら働きました。私もまだ20代だったのですが、お化粧などには縁がなく、逆に冬など手足が荒れて、“赤切れ膏"“乙女肌"という、ヒビやアカギレの薬にお世話になっていました。ともかく独立したからには基礎が固まるまで“娯薬"抜きでいこうとお父さんともいつも話していました」 そんな忙しい毎日だったが、「秋山研究所」の錠剤技術は三鱗製薬で高く評価されるようになった。

吉田社長の死

しかし、よき会社との門出はすぐに苦難にぶつかった。精神的にも経済的にも「秋山」のよき理解者であった三鱗製薬の吉田社長が急逝してしまったのである。
吉田社長の死に伴い、三鱗製薬は玉置合名という薬品問屋に身売りされたが、玉置には自社の製剤工場があったので、「秋山」への発注はピタリととまってしまった。

三鱗製薬を唯一の注文先としてスタートした「秋山」は最初の大きな試練にぶつかる。
「上京して星製薬に約10年もいたあと、独立したとしても三鱗製薬の後押しがあったからこそどうにかやっていくことができたのである。」それが吉田社長の死で、私は文字通り、ひとりぼっちになってしまった。田舎育ちで東京に知人も多くはいない。このときは目の前が真っ暗になってしまいました。(市郎・談)
しばらくは夫婦ともにぼう然として何も手につかなかったが、やがて市郎は、自分で新たに営業活動を始める決心をする。

営業といっても市郎にとっては、すべてがいわゆる"飛び込み営業"であった。どこにどんな製品を作っている製薬会社があるのか。まずそれを知るために、市郎は、東京日々新聞や「主婦之友」の広告欄に目を通し、製薬会社の広告を見つけるひとつひとつていねいに切抜き、それを頼りに自分の足で製薬会社を一軒一軒"戸別訪問"していった。約20円を奮発して山口の自転車を買い、これに乗って毎朝、早くから注文取りに出かけた。市郎は必死だったが、そう簡単に仕事は取れなかった。

「秋山」にとって最初の、そして最も大きな試練の時だった。

「毎日、注文を取りに出かけてもほとんどが玄関払い。肉体的にも精神的にもすっかり参って家に帰ってきました。妻の手がきれいに磨かれた打錠機が仕事を今か今かと待っているようでつらくなった。
でも何も知らぬ長男が『お父ちゃん、お父ちゃん』と寄ってくるのを見ると、どんなにつらくても頑張らねばと決意を新たにした」

注文はまったく取れず収入ゼロ、という日が半年も続いた。幸い独立後、わずかながら貯金をしていたのでそれを少しずつ引出しながら暮らしたが、それもやがてなくなりついには35円の家賃が払えず、家主から追い立てを喰ったりもした。

原沢製薬から仕事がくる

注文のまったくない日が半年以上も続き、「秋山」ももうダメかと思った時、市郎の努力がようやく報われる日がきた。原沢製薬という製薬会社が、仕事を出してくれたのである。その日市郎は、いつものように新聞広告の切抜きを頼りに自転車で、品川・高輪南町にある原沢製薬を訪ねた。原沢製薬は、当時、コロイド水銀の薬(解毒剤)「コロイゲン」を作っていた会社である。もちろん“飛び込み営業"であった。

「その頃はすっかり弱気になっていてまたダメかと思っていたのですが、出てきた奥様に来意を告げるとすぐに社長の部屋に通してくださった。
原沢福康という社長さんで、私の話を聞き、私の作った「チクノール」を見ると『よし話はわかった、ウチの“コロイゲン"を打錠してくれ』といってくれた。その時は本当にうれしかった。初対面の私にいきなり大きな仕事をくれたのですから、私は文字通り天にも昇る気持ちでした。原沢社長は心の温かい方で、のちに私が空襲で焼夷弾の直撃を右足に受け、東大病院に入院した時にも、滋養糖を持って見舞いに来てくださいました」(市郎・談)

原沢社長は、その場で市郎に「コロイゲン」の原料100㎏を渡し、打錠の注文を出してくれた。打錠1個が0.25gだったから、100㎏といえば、40万錠という大変な量の注文である。値段的にも1錠の加工賃が2銭の時代であったから、8千円に相当する大型の発注である。市郎は、それを「10日間で納入する」という条件で受け、原沢社長の信頼に応えるべく、妻ケイと、ほとんど不眠不休で働いた。そして、約束通り10日後に市郎は、原沢社長に40万錠の錠剤を届けたのである。 まだ単式打錠機の当時、これは大変なことであった。原沢社長は、この実績で「秋山」を信頼し、以後も継続して仕事を出してくれるようになった。「納期正確、量目厳守」はそれから「秋山」のモットーとなったのである。


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