秋山錠剤物語 第六章 新工場建設、そして創立五十周年

工場をふたたび焼く

「秋山錠剤」の歴史は火災の歴史と言っても過言ではない。戦前に1回、そして空襲で1回、昭和23年に1回とすでに3回も火災にあっている。そして、まさかと思われた4回目の火事が、またしても「秋山錠剤」を襲うのである。

昭和36年7月6日の昼、薬の原料に引火し工場はまたたくまに火につつまれてしまった。幸い、非常階段が完備してあったので社員は無事に脱出できたが、工場は全焼、大切な取引先の原料も焼いてしまった。工場の隣にあった義郎(当時・専務)の家も猛火に呑まれてしまった。

「その日、妻は泰伸のピアノのけいこについて出かけていた。僕は大事なお得意様のものが焼けている最中に、自分の家に飛び込んで自分の家財道具だけを取出してくるという気になれなかったので焼かれるままにしていたのです。あとで社員が家に飛び込んでかろうじて電気冷蔵庫や着物をわずか持ち出してくれた程度で、ほとんど焼いてしまった」(義郎・談)

この火事は、戦後「秋山錠剤」の再建に力を入れてきた義郎にとっては大きな痛手となった。

「父や弟は、その場でもう再建の準備を始めていましたが、僕はショックだった。お得意先のものを焼いてしまったこと、自分がコツコツ築いてきた仕事を失ったことで複雑な気持になってしまった。それに女房のものも子供のものも何もかも焼いてしまった。こんな仕事はもうやめたい。そう思うと仕事にも手がつかなかった。しばらくは放心状態が続きましたが、時間をかけ、ようやく徐々に気を取り直しました。この仕事にいわば自分の青春をぶつけてきた、今40歳になってもう迷うのはやめよう。自分はこの道を進もうと決意を固めたのです」(義郎・談)

夏の暑い中を再建への努力が続けられた。しかし、社員の中には「秋山錠剤」に見切りをつけてやめていく者が続いた。苦しい時期だったが、社員一丸となった努力の結果、回復のピッチは早かった。そして何よりも「秋山錠剤」にとっての救いは、得意先の各製薬会社が、「秋山錠剤」の再建に力を貸してくれたことだった。

「お得意様の大事な原料を私どもの不注意で燃やしてしまったのに、皆さんが『秋山さん、もう一度やってみろよ』と励ましてくれたのです。涙が出るほどうれしかった」(市郎・談)

昭和36年7月6日午後、薬の原料に引火し、工場全焼

再建への努力

周囲の暖かい励ましの中で再建への努力が続けられた。8月には、当時日薬新聞社の社長をしていた富田健次氏と星製薬の重役の日村豊蔵氏の厚情により、五反田にあった星製薬の錠剤・糖衣工場(現在のTOC)の1フロアを借りることができ、そこで生産活動を再開させた。
「あの時のお二人のお力添えは忘れられません。錠剤室約230坪、そして機械設備をほとんど只同然の値段で貸してくださったのです。」(市郎・談)
星製薬に“間借り"して生産を再開させる一方、焼け跡を整理してその年の12月にはプレハブで仮社屋を建てそこを包装室にした。その後も次々にプレハブ工場を建てていき、全部で4棟、それぞれを包装室、糖衣室、錠剤室、顆粒室(仕込み室)とした。また職制を包装・配合・調剤・錠剤・糖衣の5部門に整備した。

プレハブ工場ながら「秋山錠剤」は再び活気を取り戻した。工場が出来上がるとともに星製薬での“間借り"も終えた。ミノファーゲン製薬の「グリチロン」をはじめ受注量は年々増えていった。この頃には、四国、大阪、富山や九州など、全国的に受注が広がった。

新工場の建設

昭和38年になると工場は非常に手狭になってきたので、新しい工場を建てる必要に迫られた。折から翌39年の東京オリンピックのために区画整理が行なわれ、「秋山錠剤」も隣地に移動しなければならなくなった。現在のT字路の突き当たりは以前は四つ角になっていてその道路上に移ることになったのである。百坪あった土地は移転によって85坪に減ることになったが、いい機会であるので、新工場建設に踏み切ることになった。

「何よりも燃えるのはもうイヤだったので鉄筋コンクリートにしました。それとお客様に見てもらって恥ずかしくない建物を、と考えました。」(義郎・談)

こうして、昭和38年8月に新社屋建築を出願、12月から工事にかかり、翌39年の6月、四階建ての新社屋が完成した。(現在の1号棟がそれである)

「6月25日の落成式には、義郎の母校である明治薬科大学恩田学長をはじめ諸教授、星薬科大学の涌井、緒形、石川教授、日本薬剤師会会長・竹中稲美氏、衆議院議員でミノファーゲン製薬の社長でもある宇都宮徳馬氏、衆議院議員の加藤勘十氏、衆議院議員の加藤シズエ氏、品川区長・島本正一氏など業界の方々三百名を超えるお客様が出席してくださいました。私にとっても『秋山錠剤』にとってもうれしい日でした」(市郎・談)

なお市郎は昭和39年の新潟大地震に際し10万円の罹災見舞を送り、このことで40年にはからずも「紺綬褒章」を受けた。また昭和53年には銀杯を受賞している。

工場全焼のあと昭和39年に建設した工場(写真は糖衣機)

飛躍の時代

新工場の完成によって生産能力は大きく上昇した。薬品の種類も「グリチロン」をはじめ、天狗十王精などの栄養剤もあり、バラエテイ豊富であった。社員の数も40年には30名と倍増した。

業績は好調で、建てたばかりの新工場もまたたく間に手狭になったので、隣地に百坪の土地を買い求め(現在の2号棟)、昭和44年には、鉄筋コンクリート五階建ての新社屋を完成させた(現在の3号棟)。売上げは上昇の一途をたどり、昭和38年の売り上げに対し、44年には512%、49年には1550%と実に15倍に伸びたのである。


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