秋山錠剤物語 第七章 昭和から平成へ

世代交代へ

「秋山錠剤」は、昭和49年に市郎が会長に、義郎が二代目の社長に就任し、昭和50年には創立50周年を迎え、盛大にその祝賀会も行った。
会社は新しい門出をし、仕事も順調であったが、市郎は晩年白内障が進み、ついには失明してしまう。しかし、会社には毎日のように出社し、現場に行って、製剤に触れては的確な指示を出していたと言うから驚きだ。いかにも職人・秋山市郎を物語るエピソードと言えよう。
その市郎も昭和53年1月に病により没してしまう。享年85才であった。

業界の仕事も手がける

そのころ日本の医薬品受託製造業社の数はかなり多くなっていたが、委受託製造そのものの法整備は整っていない状況であった。それどころか、厚生省の「医薬品製造は自社製造が望ましい」との指導のもと、受託製造を取り巻く環境はせばまるばかりであった。
そこで昭和44年、秋山義郎は東西の小さな団体を統合し「医薬品製剤協議会」を立ち上げ、初代会長に就任した。
協議会はその後厚生省に対して、数々の陳情活動を行い、昭和62年の受託製造工程の拡大を皮切りに平成7年の区分許可制度、平成16年の完全委託も可とする旨の通達を勝ち取るに至った。

次の時代へ

昭和53年には義郎の長男、泰伸は明治薬科大学を卒業後、同大学院に進学し、59年に博士課程を修了、その後エーザイ株式会社に就職していた。
いきなり義郎の手元において教育をするより、「他人の釜の飯を食って来い」ということだった。
しかし、その義郎は59年の5月に病に倒れ、翌60年2月に急逝してしまう。享年62才という若さだった。泰伸は当時エーザイ入社一年目の新入社員で、まさにこれから製剤に関する実務や知識、人脈といった将来糧となる基盤を築こうとしている矢先であった。
しかし時は急務を要した。泰伸は急遽「秋山」にもどり、いきなり代表取締役の重責を担うこととなったのである。当時のことを泰伸はこう語る。

「父が亡くなり、こういうことになりましたが、最初はとまどいました。一応薬学博士の学位は取得しましたが、直前までエーザイの一平社員で、しかも入社一年目の新社会人でしたから。そんな不安な状況の中でも幸いお客さまには大変恵まれました。以前と変わらずにお仕事をくださったことには今でも本当に感謝の気持ちでいっぱいでした。また、優秀なスタッフにも恵まれました。これこそ父の残してくれた遺産だと思いました。」

しかし、その心意気とは裏腹に売り上げは低迷する。世はバブル景気に突入していくが、その間も地道に本業に邁進する日々が続いていた。

五度目の火災

泰伸が社長に就任し、元号も平成と変わり、周辺が落ち着いた頃、新たに隣地を取得し、そこを本社とすることにした。平成九年のことである。
しかし、忘れもしない。その年の9月9日、1号棟1階の製造現場が爆発事故を起こしてしまう。その爆発音は戸越銀座の駅まで届いたと後に近隣の方からうかがうこととなる。

「あれには本当に参りました。昼休みも終わった午後1時23分、私は自室で執務をとっていましたが、突然の爆発音と地響き。何事かと思いました。そして眼下の工場から煙が出ているのを見て愕然としました。その後はけが人の処置、警察・消防への対応、労働基準監督署への事情説明、なんと言っても工場の復旧。しょげている暇などありませんでした。父をなくして10年、それ以来、いやそれをもしのぐ試練でしたね。」(泰伸・談)

実害は1号棟1階の全損。しかし幸いにも人的被害は従業員1名にとどまり、周辺への被害も最小限と判断できた。その後半年の修復期間を経て、復興への道のりが始まった。
翌年3月には大きな欠損決算となったが、なんとそれから1年でその全ての赤字を精算し終える。全社員一丸となっての仕事の成果だった。

現在に至る

その後、法整備も徐々に整い、医薬品受託製造業界は拡大していく。秋山錠剤も緩やかに顧客の拡大、売り上げの増進を繰り返し、平成20年3月には念願の福島県西白河郡泉崎村に新工場を稼働させ、本社工場と2工場体制となった。
泰伸はこう語る。

「奇しくも創業者の出身県である福島県に新工場を取得できたことは単なる偶然ではないような気がします。祖先や多くの方々に感謝しつつ、この新しい生産拠点を大切に育てていきたいと思っています」

これからも「変わらないために進化する」秋山錠剤を注目していきたい。


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